「見れる」「食べれる」「来れる」――「何がおかしいの?」と思う方は、もう長いこと日本全国で猛威をふるい続けている「ら抜き病」に感染しています。――と言うのは冗談ですが(笑)
実際この「ら抜き病」ならぬ、「ら抜き言葉」。症状は、動きを表現する言葉に使われるべき「ら」を使用しない、というもの。先に挙げた例も、「見られる」「食べられる」「来られる」が正しい表現です。
ただ一音抜けただけなのに、何故そんなにいけないのか、と言いますと―――実は結構大きな違いがあるからなんです。
本来、「れる」「られる」には、可能・受身・自発・尊敬などの意味があり、これらを状況によって使い分けてきました。
「(他人に)見られる」は受身の場合に。「(これなら)食べられる」は可能かどうかの場合に。「(部長は5時に帰って)来られる」は尊敬を表す場合に、と言った具合です。
ところが、『ら抜き言葉』では総て『可能』の意味になってしまいます。日本語の美である「細やかな表現」が、「ら」一音抜いただけで台無しになってしまうわけです。
それだけではなく、昨今問題になっている『敬語の乱れ』『間違い』にも、一役買ってしまうというわけで…それはちょっと問題でしょう?
一字違いで意味は大きく変わります。「たかが」と言わずに、『ら』を忘れずにしっかり言ってあげましょう!
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